新 The Economistを読むブログ

イギリスの週刊誌 The Economistを読んでひとこと

援助の実態

4月7日号のInternarionalのページは援助協調を巡る国際社会の混迷を論評する記事で始まっています。開発援助の仕事に従事する人間としては援助機関相互の調整不足など「そうだ、そうだよなあ」と同感できる部分、条件が整わないため出るはずの資金が出なくなるなど「なんとかしてくれよ、ほんとに」と自棄になりたくなる部分、さまざまです。

記事が伝えるところはまず、2005年のグレンイーグルズサミットで決定したODAの積み増し(国際社会全体で1100億→1300億ドル)は、現状かなり難しい状態にあるということ。これはバブル期に金額だけ大きく伸びた某国のODAがまさにそうだったのですが、現状キャパシティのないところに金だけ増やしても有効な援助にはつながらない、という点があります。過去2年の積み増しがうまく行っていないため、目標達成には向こう3年で大きく実績を伸ばす必要があるのに、なんと2006年は対2005年比で5%落ち込んだ、というのですから始まりません。また、債務帳消しが援助金額に加算されるため、実質的な援助が減額されても名目的には増えている、というケースもありえるのです。

記事はまた、さまざまな条件の下、出たり出なかったりする援助頼みの政策は必然的に控えめなものになりがちであること、実際の支出が予定額に対して条件未整備等により未達で終わることもめずらしくない現実を伝えています。平均的には65%程度の資金しか供与されていないのが現実である、とOECDは報告しています。それが国によっては(効果が高いと考えられる国。ベトナムなど)は予定額よりはるかに大きな金額を受け取ると言う例もあり、出すほうにとどまらず受け取ったほうでも未消化に終わる例すらある、とのこと。

記事が伝えるとおり、援助機関相互の調整不足もよく批判の対象になります。いくつかの異なる機関から同じ予防接種を繰り返しうけたため、本来防ぐはずの病気になってしまった、という事例も参照されていますが、援助の仕事に携わっていると、似たような話はさまざまなところで見聞きます。ドナー国はこれら援助機関の改革にも一応の熱意を見せますが、皮肉にも「最も援助機関の改革に熱心だったドナーが結局援助機関を使わない」(名指しはされていませんが、現実的には日本もこれに該当します)、という例も見られるようです。ドナーは結局受益者より有権者を見ているのだ、と記事は批判しています。

援助機関の改革には一定の方向性が求められるわけですが、客観的な評価指標について国際社会が合意できるようなモデルは今のところ存在していません。「量より質」というならば、質とはいったい何なのか、を議論する段階へと進むべきではないかと思います。10年世界のトップドナーでありつづけた日本がリーダーシップを取るに不足はないテーマだと思いますが、如何でしょうか。