新 The Economistを読むブログ

イギリスの週刊誌 The Economistを読んでひとこと

ジャーナリズムと記述深度

6月9日号を読み進んでいて、気付かされることがあったので少し違う視点から書きます。昨日一寸触れたように、Briefingではスリランカ内戦問題を取り上げていますが、その書き出しのところで犠牲となった住民の父親がどのようにして殺されたか、をかなり詳しく記述しているくだりがあります。考えてみればThe Economistを読み出してからずっと、どこかで気にしていたことではあるのですが、たとえば人をどれだけ酷く殺したりという点の物理的記述を、日本のメディアは(良識、ということなのかもしれませんが)避けるきらいがあり、同様の情報をジャーナリズムから得ることにあまりなれていない自分を発見してしまうのです。これはなにも同誌に限ったことではなく、たとえばアメリカの週刊誌等でも同じようなことを経験します。

Untied Statesのページでも、体外受精による受精卵を冷凍したまま離婚した夫婦が妻は受精卵を欲しいといい、夫は破棄したいという裁判が最高裁で争われているそうですが、個人名から何個の受精卵をどのように処理した等々、詳細な記述はあたりまえ、という感じで報道されています。これらも最近の日本の報道では(仮名)だったり、具体的な個数や処理方法については触れないものが目立つように思うのは気のせいでしょうか。ジャーナリズムであるからには、事実をきちんと報道すべきである、というスタンスに立てば良識やその他けれん味を捨象する書き方のほうが本来的なのかも知れませんが、片一方でそれに違和感を感じる自分が居て。。というのはなんだか妙な気分です。

ちなみに、ハリケーン・カトリーナが襲来したときに病院から(底の平たい)ボートで救出された受精卵があり、生まれた子供は「ノア」と名づけられたそうですが。