新 The Economistを読むブログ

イギリスの週刊誌 The Economistを読んでひとこと

これは挫折ではないのだろうか

ちょっと寄り道で、Web版のCOP15に関する記事"Better than nothing"について。

まず、やや象徴的だったのが、何らの法的拘束力を持たないコペンハーゲン宣言が採択されることに関しての記事を飾る写真が、米オバマ大統領、仏サルコジ首相、英ブラウン首相、独メルケル首相らが車座になって相談をしているシーンで、そこには鳩山首相の姿はなく、更に言うと中国の胡錦涛主席やインドのシン首相、ブラジルのルラ大統領の姿も見えませんでした。The Economistの「世界観」を物語る写真のような気がしたのですが、これは寄り道のさらに寄り道。

記事の内容は、難航した協議の末に自発的努力を合意するに留まった今回の会議について、他のメディアと同様にややクールな見方を伝えています。読者コメントは、気候変動問題全般に関する疑義を呈するものについて少なくない同意が示されていますが、同時に世界的な環境問題の難しさへの憂慮を示すものも複数寄せられています。

何らの法的拘束力を持つ合意にならなかったことは、挫折ではないのでしょうか。国際会議で得られた「合意」は何にせよ国際社会で尊重されるべきものであるというスタンスを崩したことのない日本政府的な(ということは、会議におけるタテマエ論もそうであるのだと理解できますが)見解では「挫折ではなく、自発的努力という合意が得られた」というような整理になるのだろうと思われます。これ以降も合意に基づいて、条約作りや環境保護の職人さんたちが、おそらくは「粛々と」作業を続けて行かれるのだろうと思います。

今後の展開を予測する上で若干の懸念が残るのは、京都議定書とは果たしてなんだったのか、という整理がやや甘いと思われることです。おそらく、それがゆえに途上国からは「京都議定書の単純延長で良いじゃないか」という意見が上がることにつながったのではないかと思われるのですが、実効性のある温暖化対策を議論するのであれば、京都議定書では実効性は期待できないという議論を、まずきちんと共有すべきではなかったかと。その意味で、産みの親でもある日本が「もはや京都では世界は救えない」的な実績の総括をできるチャンスだったのではないかとも思うのです。

企業経営では、俗にマネジメントサイクルというのですが、「プラン→ドゥ→チェック→アクション」と言う手順で企画したことの総括を行い、成果を次にフィードバックします。反省ないところに改善なし、という考え方に基づくものですが、京都議定書について十分な反省とフィードバックが試みられたのか?という点には大きな疑問が残ります。

環境問題を巡る国際会議において、同時並行的に自主的な会合を重ね気勢を上げるのは環境NGOの専売特許みたいになっていますが、むしろ世界のメディア、ジャーナリズムこそ、「チェック」について議論し「アクション」を働きかけるようなイニシャチブを取るべき責任があるように思います。科学的根拠への疑問、政治的駆け引き、垣間見える利益誘導、民間企業への収益圧迫、一方で大規模化する自然災害、減少する極地や高山の氷塊と危機に陥るといわれる生物種など、確かに変数は多岐にわたります。であればこそ、ジャーナリズムの力の見せ所ではないのかと、この記事を読んで改めてそう感じた次第です。