新 The Economistを読むブログ

イギリスの週刊誌 The Economistを読んでひとこと

日本崩壊

一寸衝撃的なフレーズですけど、9月4日号のLeadersの最後に出ている民主党代表選挙に関する記事のタイトルがこれでした。とは言っても中身は「この大変なときにコロコロ政府を変えるな」との、至極真っ当な議論に則った、小沢一郎立候補に対する批判でした。

それを以って批判するメディアは洋の東西を問わず多かろうと思いますし、どう見てもよろしくないタイミングで代表選挙が行われているのもまた事実と思います。それでもなお、国難に当たるには自らを以ってせざるを得ないと小沢氏が思っていたであろうことは想像に難くなく、その参加を最後まで拒んだ以上は菅総理大臣とて選挙が不可避になるであろうことは容易に察しがついただろうと思うのです。

よく刑法のお勉強で「未必の故意」という概念が出てきますが(積極的にやろうと思っていたわけではないが、そうなっても仕方ないとは思っていた、というあれです)、菅総理の小沢氏もしくは代表選についてのイメージはもしかするとそんなところだったのではないかと思うのです。

事実、鳩山辞任から代表選に至るまでの菅直人は、ぱっとせず、受身の所作ばかりが目立つ総理大臣であるように見えました。小泉の郵政のように自らの政治課題を熱く語るで無し、民主党政権公約については「現実的な見直し」以上のメッセージは出てこず、参院選敗北で代表選必須という状態になっても「ならば俺はこうする」という具体的な覚悟が伝わってこなかったわけですが、ようやく代表選になってそれらしきコトバが彼の口から出始めた、というくらいでしょうか。その意味で代表選は一定の情報開示促進効果があったといえるでしょう。

The Economistの論評とは違い、テレビで討論会を中継したこと、それを複数回にわたってやったこと、私はこれが日本の政治における民主党の見えない勝利だと思っています。欲を言えば、小沢氏が自信たっぷりに語る財源問題について、彼のひねくれ小僧のような物言いからか、具体策への議論が全く見えてこず、菅総理大臣の「雇用・雇用・雇用」についても具体策らしき話がどうしてもインパクトを伴わない、というような本質的問題はまだ残っているのですが、開かれた選挙でしっかり決着をつけることで、次へのステップは見えやすくなったと思うのです。

やや情けないのは自民党で、具体性のない政策議論こそ具体的対案をぶつけることで差別性を出せるチャンスだというのに、それらしき動きは全くと言ってよいほど出てきていません。先日竹中平蔵氏がTwitterで「政府による規制の仕分けをすべき」との議論を出されていましたが、これなど剋目してしかるべき問いかけではないかと思いました。