新 The Economistを読むブログ

イギリスの週刊誌 The Economistを読んでひとこと

やらないんじゃなくて、できない

6月10日号のAsiaには、国連の特別報告者が日本政府によるメディアへの締め付けを批判した報告書と、それに対する日本の対応に関する短い論評が載っています。アングロサクソン社会が認める正論のあり方と、過去の日本の対応について、日本に居る日本人の目には示唆に富む内容だと思いましたので、今日はそれについて。

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記事では、特別報告者であるデビッド・ケイ教授がまとめた日本のメディア統制に関する報告書が日本でどのように取り扱われたかが紹介されています。すなわち、学究からは妥当性を疑われ、日本政府担当閣僚は報告書の信ぴょう性に疑義を示し、報告者と会うことすらしなかった、というのですが。

私も報告書そのものを読んだわけではないので、どの程度トンデモナイ内容なのかを把握せずに書いている状況ながら、妥当性に疑義があるというのであれば、会わないちおう対応を取るのではなく、国連の責任を問うくらいの反論や具体的な行動を示すべきだったのではないかと考えます。

記事は、日本が議論の機会として報告書を取り上げる対応を取らなかったことについて疑義を示しています。無視するんじゃなくて議論したら?というあたりがアングロサクソン的というか、上から目線的な物言いになっていて、一読しただけではシラケルことこのうえないお話しです。

かつて世論を騒がせた従軍慰安婦に関するクマラスワミ報告についての対応もそうなのですが、国連との関係について事を荒立てる可能性がある選択肢を、日本政府はまず取ることがありません。これにはさまざまな理由があるようで、今日はその点についてあまり深入りはしませんが、要は「やらないんじゃなくてできない」状態なのではないかと言うのが私の見立てです。

一言で表現すれば「戦勝国中心の体制保全装置」である国連は、時折ですが日本の国益を平気で無視するような対応を取ることがあります。そもそも自らの立ち位置が確保しづらい環境の中で、それでも状況をなんとか改善させたいと考えるなら、事を荒立てないまでも粘り強く説明する、あるいは不当な認識があるならそれを積極的に潰す、ような対応を、諦めずに執るべきであろうというのが当たり前の考え方だと思うのですが、もしもそこに「できない」ことにつながる障害があるのであれば、まずはそれを取り除く努力からはじめなくてはならないわけですね。

似たような、お門違いの報告や明後日の方向を向いた指摘は今後も折に触れて出てくるかもしれません。その都度、無視することでやり過ごすしか選択肢はない、というような状況に自らが自らを追い込むことのないように。