新 The Economistを読むブログ

イギリスの週刊誌 The Economistを読んでひとこと

フィランソロピーの目指すところ

3月3日号は特集記事でアメリカ南部諸州の発展と今後の課題について詳報しています。ある意味あまり驚きのない正攻法の分析ですが、教育分野における課題、というのは何も南部諸州に限ったことではなく、発展の有無に関わらず人類全体の課題であると言う捉え方もできるような気がしました。尤も、かつてアメリカで一部の教育を受けた記憶から言うと、教育を最優先課題としてあげるに足るさまざまな悩みをかの地域の教育現場が抱えていることもある程度想像できますが(もしかしたら程度の差、かも知れませんしもっと根本的な問題かもしれません)。

Internationalのページでトップに出ていたのがフィランソロピーを巡る最近の動き、です。学術や芸術その他の振興を目指してさまざまな賞や賞金が設けられている、というのは今に始まったことではありませんで、ノーベル賞を初めとするさまざまな顕彰制度が世の中の発展に寄与してきたことは異論の少ないところかと思います。なんでもこういった賞の設立と運営を通じて世の中の変革−新技術の開発促進など−を目指そうという動きが「流行り」なんだそうで、少壮の金持ちが「既存の顕彰制度は時間もかかるし効率性に劣るので、これまでになくレバレッジ度が高く、これまでになく世の中の隅々から受賞対象を見つけるような」賞と運営組織の設立に動いたのだそうです。

そもそも、賞の対象となるのはある程度世間に認められた何かであろう、それを社会変革のためにニッチなエリアまで食指を広げて探してこよう、というのはコストが高くつくのではないか、というThe Economistの指摘は的を得ているように思えます。レバレッジ度を上げる、というのはたとえば10万ドルの賞金が出る研究が全体で100万ドルかかっている(すなわち賞を取りたいと思う研究者などに、誰か他の人が出資してくれた)とすると、レバレッジ度は10倍になるということですが、たとえば途上国の研究機関などは、はるかにレバレッジ度の低い無償資金協力等を受けていることから、レバレッジ度の低い(言い換えれば名誉だけで賞金はあまり出ない)賞には興味を示しにくいのではないか、という分析もその通りではないかと思います。

たとえばノーベル賞は19世紀からあるわけで、その運営を介して蓄積されたさまざまな知見やノウハウは、これら新規の賞を考えるときにどのように生かされているのでしょうか。あるいはそんなこと全く関係なしにいきなり「賞」が出てきてしまったのでしょうか。

(賞を作ることで)「世界を変えよう」という発想たるや立派なもの、だとは思いますが、そのためのツールとして考えた場合、このような顕彰制度はいささか手垢がつきすぎていたようですね。

いっそのこと、インターネット上で貢献度のランキングサイトでも作って、専門家の「評価」を公開するくらいのことをやったほうが、「賞金によるレバレッジ」なんていう、もしかすると不心得なインセンティブの頚木から自由になれるような気がしますが(でも賞金も捨てがたいんでしょうね)。