新 The Economistを読むブログ

イギリスの週刊誌 The Economistを読んでひとこと

共生は何のために

9月1日号のMiddle East and Africaには、イスラエルとパレスチナの共生支援事業を巡る状況の変化についての記事があります。曰く、インティファーダを機として特にパレスチナ側の「共生よりも、まず生を」という意識が高まり、事業の実施も簡単ではなくなってきている、とのことですが、果たしてこの視点は正しいのでしょうか。

典型的な共生支援事業と言うと、両国の若者(なぜか常に若者ですが)の対話を促進する場を提供したり、一緒に過ごしたり、スポーツをしたりというパターンで、アメリカなど特にイスラエルの友好国で行われることが多いように思います。実は日本でも、政府がイスラエルとパレスチナの若者を日本に呼んで合同研修をするという形で、共生を支援する事業が継続的に実施されています。もう何年も続いている事業の結果、共生はどの程度促進されたのでしょうか。

摩擦・軋轢の繰り返しばかりがメディアに取り上げられる中、過去20年を見れば構造的なギャップすなわち豊かなイスラエルと貧しいパレスチナという違いはあまり変わっているように見えませんし、米欧を中心とする西側社会と両国との関係も変わっていません。強いて言えばパレスチナを国と扱うことに多少なりとも違和感が減ったこと、くらいではないでしょうか。攻めてくるイスラエルにゲリラ戦を挑んで、侵攻を許さなかったことを「勝利」と喧伝できるのはヒズボラですが、公式にも非公式にもイスラエルと対峙することを運命付けられているパレスチナから見れば、「共生」イコール自らを二級市民として構造的に位置づけること、と見えなくもありません。バルカンや、古くは東アジアでそうであったように、民族として人為的な貶めを受けたとの思いが何よりも強い記憶として子々孫々に語り継がれ、ついには国の形を変えてしまうとの歴史的類型に、パレスチナ問題についてもまた近いものを感じるのは私だけではないと思います。

ではどうすればよいのか、と言われたとき、国際社会の誰もが「ギャップを埋めるためには先ず平和を、そしてパレスチナに産業を、そのためにこそ共生を」、という結論以外に説得的なシナリオを持てないのもまた事実だとすれば、パレスチナの持てる真実およびその意見との間には、全くもって埋めがたい開きがあるとしか言えません。

ひとつの考え方として、共生ではなく「パレスチナはどうあるべきなのか」、というビジョンの問題をとりあげてはどうかと思うのですが(同じことはクルドやアチェにも当てはまります)。100年後、パレスチナは国際社会でどのようなポジションに居たいのか、そしてそれは何故なのか。

「対話」や「相互理解」以上のビジョンを持てないことなど、多くの共生事業は一見長期的な取り組みに見えて、実は短期的問題解決への視点で動いているとしかいえないところがあります。それならいっそ、共生事業の代わりにパレスチナに対して「内観」の機会を持ってもらい、責任ある形で国際社会への問いかけを返してもらう、と言うような取り組みは如何かと。